読書日記Nо.1068(渾身の坂口安吾論)
私は、20歳前後の頃、集中して坂口安吾を読んで、馴染んだ時期がある。
若い魂に、染み入るように安吾の文章が入ってきた。
先月、書店の店頭で、本を物色していたら、なんと、柄谷行人が安吾論
を書いているではないかと、思わず手に取った。
柄谷行人は、1941年生まれの伝説の哲学者、文学者、文芸批評家である。
私なんぞ、なかなか近づけなかったが、今回はご縁ができたみたい。
あとがきで、著者が述べていたが、柄谷行人は、その著作をすべて読み、
かつ何度もそれについて論じた日本の著述家は4人しかいないという。
うかつにも、そうとは知らなかった。やはり近寄りがたかったようだ。
さてさて、本書でした。
惹句を紹介。
“日本人の自己欺瞞を蹴倒す安吾的精神、自ら自由人たらんとした未来の
作家・安吾。『坂口安吾全集』月報連載170枚に重要評論を精選併録し、
今こそアクチュアルな安吾の全体像を描く、柄谷安吾論決定版!単行本
初収録250枚。”
“自ら自由人たらんとした安吾的精神、戦争をはさんで書かれた、
日本人の自己欺瞞を鋭く突く安吾の言説の、今もアクチュアルな意味
あいを抽出し、虚飾を排したその文学の全体像を描く評論集。”
痺れるような箇所を、写経のように引用。
“安吾はいつ読んでも面白く新しい。そしてあらゆる領域において新鮮である。
今日の読者は、たとえばその小説・物語に山上健次、批評に花田清輝、
“安吾はつねに過激であり未完成である。というより、彼は完成とか成熟と
いった制度的な観念とは無縁であった。この「未完成」が、いかなる
「完成」にもまして、われわれを刺激し挑発しつづけている。”
“知的であることと肉体的であること、倫理的であることと超倫理的(アモラル)
であること、地を這うことと天翔けること、西洋的であることと東洋的で
あること、文学的であることと反文学的であること、そうした両極性が
安吾のテクストほどにダイナミックに統合されている例を私は知らない。”
的確に、安吾の魅力を表現した言葉に、深く納得(^^♪