ホンモノ時計VSニセ時計

もう一昔も前ですが。

海外旅行に行くと、ニセ時計をおもしろがって買っていた時期があります。東南アジア旅行に行って、現地ガイドさんにそのように言えば、どこの国でもふたつ返事でそのようなお店、たいていは裏町の地下あたりに連れて行ってもらえました。その種のお店の人とガイドさんの親密度からみて、あれはもう日常的なことで、かつ強い利害関係があるとしか思えませんでした。

そのようにして買ってきた、さらにビクビクもので税関をすり抜けたニセ時計ですが、ああ、税関を通るときには買った時計は腕にしていました。国産のそう高くない腕時計が荷物に入っていても、それは違法ではないから、ですね。今現にしている時計なんか気にするほどヒマな税管の人もいないのだし、そういう時計ですが、やはりニセはニセですね。

とにかくすぐに壊れます。特に機械時計、自動巻きの時計に関しては、腕につけていてさえいつのまにか止まってしまっているのだから話になりません。けっこういくつも調子に乗って買ったのですが、これは本当に完全なお金のムダである、ということに気がついて、ぷっつりとやめてしまいました。

その頃にはまさか自分がホンモノのブライトリングを持つことができるとは夢にも思っておらず、それはもちろんホンモノを買うことができないからこそニセモノを買っていたわけなのですが、ホンモノを所有するようになると、これはまた別の意味でバカなことをしていたものだなあ、と思うのです。

それは、やはり、品位・品格といったものがホンモノはケタ違いに高いからです。私の持っているニセモノのなかにはニセモノとしても高級品というものもありますが、それでも一目見ればニセモノである、あるいはもしかしたらニセモノである、ということはすぐにわかります。それは表面仕上げの違いであり、時計としての動きの確かさであり、そういう細かなことが全体として大きな違和感として伝わってくるからです。

すぐに止まってしまったニセ時計のいくつかは、先日思いついて振ってみるとまた動くようになりました。あいかわらずすぐに止まってしまうのですが、そのなかでも何本かまだ少しはマトモに動くものを、カイシャにしていくようになりました。

ひとつには自分のブライトリングが、まだ本来のベルトではないので、かつベルトがかなりゆるい状態なので、そういうスキのあるままでカイシャという「戦場」にして行きたくない、ということもありますし、もうひとつには、ニセ時計なんかやっきになって買っていた愚かな自分への戒めということもあります。私が悪うございました、的な露悪趣味ですね。

伝え聞くところによると、本当に精巧なニセモノ、というのが世の中にはあって、それはホンモノの1割くらいの価格でまったく見分けのつかないニセモノを買うことができる、ということですが、そんなお金を出すのであれば、セイコーの輸出モデルならちゃんとした機械時計を買えますので、もはやそれはニセモノがどこまで行けるかを追求する、という別なところに行ってしまっていますね。

次に機会があったら、香港の女人街あたりで、ぜひそのようなSS級のニセモノと対面してみたいです。ホンモノを知っている今、そのようなものに心が動くとは思えません。もしそれでも驚くようなものがあれば、それはそれでまあ、でも、そんなものにもうそんな高いお金は出さないだろうなあ。